ビタミンB1発見の歴史を調べてみた

ビタミンB1がどのような経緯で発見されたのか調べてみました。初めて知りましたが、ビタミンB1の発見は、白米を食べ続けると脚気を発病することがきっかけになっています。

麦を食べる西洋人は脚気になる心配がありません。

米のぬかにはとてもたくさんB1が含まれていますが、精白してしまうと、白米にはB1がほとんど含まれていません。しかし、麦は精白してもB1が含まれているので、脚気になる心配はないのです。

今は脚気になる人はほとんどいないと思いますが、米を主食とするわれわれ日本人はビタミンB1と脚気について知っておいた方がよいと思いました。

玄米

ネットでじっくり探していくと、東京慈恵会医科大学学術リポジトリにあった脚気病原因の研究史という(多分)最も詳しい論文が出て来ました。35ページあります。

この論文は実に興味深く、本にしてほしい内容です。

もし、短いページ数で概要を知るなら、栄養学を拓いた巨人たちがよいです。この本もとても面白いです。

栄養学を拓いた巨人たち
栄養学を拓いた巨人たちを読むと、ビタミン研究は、今では考えられないことに、死に至る病だった欠乏症を解決するために進んだことがわかります。

これから先を読んでいただくと分かりますが、脚気にならないようにすることと、ビタミンB1を発見することは同一の作業ではありません

脚気にならないようにする方法(食べ方)が分かっても、脚気の原因物質までたどり着くまでには、さらに長い時間とエネルギーが必要になります。

また、脚気については、ビタミンB1は糖からエネルギーを作るのに関わるを読んでいただくと具体的な症状など分かります。

ビタミンB1は糖からエネルギーを作るのに関わる
この記事では、ビタミンB1について、ビタミンB1とはどのようなものか。不足するとどうなるか。脚気とはどんな病気なのか。過剰摂取はあるか。多く含まれている食品にはどんなものがあるか。一日の摂取量などについて調べてみました。 ビタミンB1はブ...

江戸わずらい

江戸時代、白米を食べる習慣が広まり、脚気が流行りました。蕎麦が広く食べられるようになったのは、江戸わずらいに効果があったためだといわれます。

江戸時代に入ると、玄米に代わって白米を食べる習慣が広まり、上層階級のほか、武士と町人にも脚気が流行した。

とくに江戸では、元禄年間に一般の武士にも脚気が発生し、やがて地方に広がり、また文化・文政に町人にも脚気が流行した。

江戸を離れると快復に向かうこともあり、「江戸患い」と呼ばれた。経験的に蕎麦や麦飯や小豆を食べるとよいとされ、江戸の武家などでは脚気が発生しやすい夏に麦飯をふるまうこともあった。(出典

元禄時代は1688年から1704年までの期間のことです。文化・文政時代は、江戸時代末期の1804年から1830年までの期間です。江戸時代、ずっと脚気があったと考えてよさそうです。

日本で古くから脚気にかかわってきたのは漢方医でした。江戸時代後期になって脚気の原因が食べものに関係があるのではないかという考えがでてきたとあります。

明治時代、科学が入って来た

明治時代になると、「科学」が入って来ました。明治時代は、1868年から始まります。

科学的に脚気になる原因は、主に3つ考えられました。脚気病原因の研究史を読むと詳しく書かれています。

  • 脚気は伝染病であり、病原菌によって起こる。
  • 中毒説。伝染性は抜きにして、細菌の毒、食物(とくに米)の毒による中毒。
  • 栄養学説。脚気の原因は「不完全な食餌、脂肪や蛋白質の不足が主な原因で、気候、体質がこれに影響する」

それぞれの仮説のもとに原因探しをしていくのですが、正解を知っている現在からこの時代のことを考えると、大変だっただろうなあと思います。

病原菌を探しても中毒物質を探しても何も出てきません。

江戸時代に得られた経験則の通り、食べものに関係があるというところからスタートすれば一番確実でした。

次に出てくる高木兼寛は、上のグループ分けでは栄養学説に入ります。食べものの組み合わせによって脚気を解決してしまいました。

ただし、脚気の原因についてビタミンB1のような存在を示したわけではなかったです。

高木兼寛の栄養欠陥説

高木兼寛は、軍医少監(少佐相当官)であった1875年(明治8年)からロンドンに留学し、1880年(明治13年)に帰国したとあります。経歴その他は、ウイキペディアの高木兼寛をご参照下さい。横須賀で有名な海軍カレーは彼の発案によるものです。

栄養学を拓いた巨人たちにはこのように書かれていました。

英国から帰国して海軍医官として勤務した高木が直面した大問題が、軍艦の遠洋航海において水兵の間で猛威をふるう脚気であった。

たとえば軍艦「龍驤」(りゅうじょう)は白米、魚、野菜を食料として積み込んで出港したが、272日の航海で、376人の乗組員中、実に169人が脚気にかかり、そのうち25人が死亡するという惨状であった。

欧米の軍艦では、脚気はまったく発生していなかった。このことから高木は、脚気の原因は食事にあるといちはやく判断し、水兵の食事の改善にとりかかった。

このとき、水兵の食べていた食事を調査すると、このようなことがわかりました。

艦船が外国の港に停泊中は(洋食をとるためか)脚気患者が減少し,再び航行をはじめると(もとの兵食(米食)にもどるためか)患者が増加するのである.

龍驤艦の場合もハワイで食糧を全部入れ替えたあとは品川に帰港するまで一人の患者も出さなかったのである.(脚気病原因の研究史)

食事の内容によって患者数が変わるなら、実際に食べている水兵が何か気づきそうなものですが、そうでもなかったのでしょうか。

タンパク質と炭水化物の比率を変えると脚気にならない

高木兼寛は、脚気の原因はタンパク質と炭水化物の不均衡によって起こると考え、栄養欠陥説を提出しました。

蛋白質と炭水化物(正確には炭水化物+脂肪)の相対比が理想値1:4からはずれて,従来の兵食1:7~になると発症し,反対にこれを1:4に近づければ予防ないし治癒させることができるというのである.(中略)

龍驤艦の調査でも,脚気に罹った者の蛋白質:炭水化物比(以後P:C比と略)はすべて1:8~9であり,罹らなかった者のそれは1:6近辺であった.

またハワイで入れ替えた食糧,すなわち脚気患者をまったく出さなかった食糧
のそれは1:4~5であったのである.(脚気病原因の研究史)

高木兼寛は、ロンドンでの生活からイギリス人と日本人の食事の違いはよく分かっていたでしょう。

そこで、改めて遠洋航海に出る筑波艦の乗員を対象に栄養試験をすることにしました。彼が献立したP:C比1:4.8の食事を食べさせながら、龍驤艦と同じコースをたどらせたのです。

この時の献立は表が出ていました。1日分の食事だと思いますが、かなり豪華です。

高木兼寛が筑波艦のためにつくった改善食(1884)
食品(g)食品(g)
白米675*17.5
獣肉300*2油、脂15
魚肉150ミルク*345
味噌537.5
醤油60胡椒1
野菜4507.5
豆類45漬物75
小麦粉75果物適宜
蛋白質:炭水化物1:4.8
*1パンにするときはパン600 g,乾パンのときは488 g
*2卵に替えるときは,卵1個は37.5 gの肉として換算する
*3コンデンスミルクに替えるときは5.7 g(出典

はたして287日の航海中、333人の乗組員のうち脚気患者はわずか14人、しかも死者は一人も出ず、しかも脚気になったのは、高木兼寛が作った献立を食べていなかった乗組員でした。

軍艦「筑波」(つくば)が遠洋航海に出発したのは、ウイキペディアによると、1884年(明治17年)のことです。わずか数年で脚気が克服できたことが分かります。

しかし、ここから先、タンパク質が少なく炭水化物が多いとなぜ脚気になり、逆に、タンパク質を多く炭水化物を少なくすればなぜ脚気にならないのか。彼はこの問題には深入りしなかったようです。

海軍では脚気は解決されたのですが、この成果は陸軍には共有されず、20年後の1905年~1906年に起きた日露戦争で多くの犠牲者を出します。

栄養学を拓いた巨人たちから引用します。

こうして「白米主義」のまま日露戦争に突入した陸軍は、さらに悲惨な結果を招いた。

戦死者は約4万7000人であったのに対し、脚気患者は約21万1600人、そのうち死亡者は実に約2万7800人を数えたのである。

対して海軍ではやはり、脚気患者はほとんど出なかった。(中略)高木が脚気から海軍を救った業績はわが国では、森が死去するまで、公には封印されたままだったのである。

その時代、海軍はイギリスに学び、陸軍はドイツに学んでいました。陸軍の医官たちは当時のドイツ医学が病気の原因は病原菌によるものだという考えに心酔していました。

陸軍の医官たちは、脚気は伝染病であり、その原因は病原菌にあると考え、高木の案は受け入れられなかったのです。陸軍の医官の中には森鴎外(森林太郎)もいました。

クリスティアーン・エイクマン

高木兼寛が海軍の食事を改善することで脚気を克服した少し後、オランダ領インド(インドネシア)でもオランダ人、クリスティアーン・エイクマン(Christiaan Eijkman)が、同じように脚気の原因究明に取り組んでいました。

もちろん、ここでも脚気が蔓延していたからです。

当初、脚気の原因として伝染病説の立場をとっていたため、原因菌探しをしていました。しかし、事件が起こります。

ある日(1889(明治22)年7月),ニワトリが突然人の脚気に似た病気にかかっているのを発見した.

歩き出すとよろめき,両足を広げて姿勢を保とうとするがそれもできなくなり,ついに横に倒れてしまう.そしてついに呼吸困難で死に至るのであった.

病理解剖では人の脚気と同じく多発的神経炎の状態にあることが分かった.驚いたことに,この病態は菌の接種には全く関係が無く,接種していない対照群のニワトリも全部このような病態になったのであった.

恐らくこれは飼育条件,特に飼料に関係があるように思われた.その発症時期が,それまで玄米で飼育していたのを急に病院の残飯(白米飯)に変更した時期に一致するからであった.(脚気病原因の研究史)

エイクマンは、改めて白米と玄米の違いについて確認しました。

  • 白米でニワトリを飼育すると脚気の症状を起こす。
  • 玄米でニワトリを飼育すると脚気の症状がでない。
  • 白米で飼育して脚気の症状がでたニワトリに玄米を与えると症状がすぐに消える。

米ぬかに解毒物質が含まれている

このことから、彼は、脚気は白米による中毒症ではないか?そして、白米と玄米の違いである、米ぬかの中にこの毒性物質を中和(解毒)する物質が含まれているのではないかという仮説を立てました。

そして、このような実験をしました。

毒性物質は恐らく白米の澱粉(炭水化物)と関係あることだろうから,澱粉としてタピオカを使い,また米糠中の解毒物質としては蛋白質の可能性があるので,相当量の生肉ないし煮肉をもちいた.

澱粉で飼育すると予想通り全ニワトリが脚気になったが,餌を生肉に切りかえると一部のニワトリは回復したが,しかし一部は治らなかった.

餌を澱粉と生肉,澱粉と煮肉の混合にすると,やはり両者とも発病し,澱粉を
抜くと両者とも回復した.

このことは,澱粉による脚気の発症は十分量の肉によっても完全には阻止できない,つまり肉は澱粉の毒作用を中和するに十分な解毒作用をもっていないことを推測させた.

そして,米糠や肉の解毒作用は,おそらくその蛋白質には関係がなく,むしろ今まで経験のない未知物質の作用ではないかということになった.(脚気病原因の研究史)

デンプンを白米からタピオカに置き換え、タンパク質を米ぬかから生肉、煮肉に置き換えたことで、白米と米ぬかの関係からより一般性を持った原因物質の探求へ一歩踏み出しました。

デンプンだけを与えて飼育すると脚気を発病することは分かりました。しかし、タンパク質の肉は、生でも煮たものでも脚気の発病を阻止するには有効ではない。

つまり、高木兼寛が考えた、食事のタンパク質と炭水化物の比率を1:4にすると脚気にならないという発見が、ゆらぐことになります。

原因物質はタンパク質ではなく、何か未知の物質ということになりました。

ゲリット・グリインス

次に、ゲリット・グリインス(Gerrit Grijns)は、1896年(明治29年)からエイクマンの後継者として研究を引き継ぎました。

エイクマンの場合は,肉は澱粉による脚気発症を完全に阻止することは出来なかったが,まだ弱い解毒作用をもち,肉だけ摂っていれば脚気を起こすことはなかったのであるが,グリインスがオートクレーブで120°C,2時間加熱した煮肉を用いたところ,その煮肉は完全に解毒作用を失い,澱粉がない状態でも,煮肉だけで脚気を起こすように変わってしまったのである.

つまり未知物質は(肉)蛋白質よりずっと熱に弱く,この加熱条件で完全に消失するのである(蛋白質はこの条件でもその蛋白質としての栄養的価値は変わらない).

このことは,肉のもつ解毒作用はその蛋白質には関係がない,というエイクマンの主張をさらに確実にすると同時に,エイクマンが始めから強調していた澱粉(炭水化物)は脚気毒性をもつ,ということをも否定することになった.

つまりグリインスの実験は,脚気の発症には炭水化物や蛋白質は関係がなく,ただそれを予防する未知物質が不足(欠乏)するだけで十分であることを示したのである.

グリインスは,蛋白質よりも熱に弱いこの未知物質のことを抗脚気因子と仮称した.(脚気病原因の研究史)

なんと、殺菌に使うオートクレープで加圧して120℃で2時間煮た肉は、それだけを食べていると、脚気が起きるようになってしまいました・・・。

脚気にならないようにする物質がある

つまり、タンパク質が脚気を阻止するという仮説は完全に否定されてしまい、また、デンプンだけが脚気を引き起こすという仮説も否定されました。

残ったのは、熱に弱い、脚気にならないようにする物質(抗脚気因子)があるということです。

かなり進歩しました。

人の脚気も白米で起こる

少し話は前後しますが、ニワトリの脚気は、白米を食べさせていると発病し、玄米を食べているとかからず、脚気になっても玄米を食べると治ることがわかりました。

ここからは人が同じように白米を食べていると発病するのか。また、玄米にそれを抑える効果があるのか、人の脚気の疫学的研究に発展しました。疫学的研究とは対象とする人数が多い研究だと思って下さい。

たくさんの人数で調べて、白米で脚気を発病し玄米で治ることが分かれば、人も同じだということが分かります。

しかし、もし、彼らが日本人ならそれは自明のことでしたね。

フォルデルマン

エイクマンの研究に大きな関心を示したのがフォルデルマン(A.G.Vorderman)です。

エイクマンの研究はニワトリが対象でしたが、彼は、オランダ領インド(インドネシア)にある101の監獄の囚人について、栄養試験を行いました。1895年(明治28年)のことです。

もちろん、玄米(ないし半搗米)では脚気はほとんど発生せず、白米では多くの人が脚気になりました。

この結果は、イギリス保護領マライ連邦(マレーシア)のブラッドンに届きました。

ブラッドン

ブラッドン(William Leonard Braddon)は、もっぱら白米を食べる中国人に脚気患者が非常に多く、反対にもっぱら熟米を食べるタミル人に脚気患者が非常に少ないことに気がつきました。

熟米とは、籾に蒸気を通して煮熟してから籾殻を取り去ったものです。玄米に近いです。

彼は州病院の数多くの入院患者について調査を行い、1907年(明治40年)脚気の原因がたしかに白米にあることを明らかにしました。

フレッチャー

また、マライ連邦(マレーシア)の地区医フレッチャー(W.Fletcher)も、1906年(明治39年)の1年間、入院患者について同様の実験を行いました。

フレーザーとスタントン

フレーザーとスタントン(H.Fraser and A.T.Stanton)は、1908年(明治41年)5月からの1年間、やはり同様の実験を行い、白米で脚気が起きることと、熟米でそれが治ることを確認しました。

さらにエイクマン、グリインスの実験法にならって、ニワトリ脚気の予防実験を行い、グリインスの抗脚気因子が蛋白質でないことを確認し、さらに、この因子がアルコールや薄い塩酸で抽出されることを明らかにしました。

ここから抗脚気因子が突き止められて精製分離されていきます。

フンク

ロンドンのリスター研究所のフンク(C.Funk)は、上で紹介してきたエイクマンからフレーザーとスタントンまでの話に常に注目していました。

彼は、ブラッドンに依頼して、ロンドンまで大量の米ぬかを送ってもらい、抗脚気因子の抽出・精製に研究をすすめていきました。

その成分を単離寸前まで追いつめ、1912年(大正元年)、ビタミンという名前をつけました。これがビタミンという語の始めとなります。

鈴木梅太郎

日本でも同時期、鈴木梅太郎が抗脚気因子の抽出・精製に成功しました。彼は、イネの学名(oryza)にちなんで「オリザニン」と命名しました。

この物質はたしかにニワトリの脚気症状に対し、予防・治療効果を示しました。彼はこれらの結果を、1912年にドイツ語の論文として発表しました。

日本人は、江戸時代から脚気に悩まされ、また、高木兼寛の考案した献立によって1884年に海軍での脚気が解決されたのだから、フンクと同時期に抗脚気因子の抽出・精製に成功するのは当然だろうと思ったのですが、少し事情が違うのです。

日清、日露戦争で陸軍では多数の脚気患者を出したため、臨時脚気病調査会が作られ、明治41年(1908年)ジャカルタでエイクマンの後継者であるグリインスにも会いに行き、脚気研究の現状を聞いていました。

科学が明治時代に輸入されたばかりの借り物だったので、高木兼寛の業績を生かすことができなかったのかもしれません。

そして、残念ながら、フンクも鈴木梅太郎もビタミンB1の純粋な結晶を取り出すことには成功していませんでした。

成功したのは、アメリカの化学者ロバート・ウィリアムズでした。

ロバート・ウィリアムズ

ロバート・ウィリアムズ(Robert Runnels Williams)は、半生のほどんどを抗脚気因子の単離・同定への挑戦に費やし、成功させた人です。

栄養学を拓いた巨人たちから引用します。

彼はフィリピンで1910年から、米ぬかのアルコール抽出物から抗脚気因子を単離することに取り組んだ。

抽出液はさまざまの物質をおびただしく含んでいるので、ここから極微量の因子を得ることは、麦わらの山の中から1本の針を探し出すにもひとしい気の遠くなるような難事であった。

彼はまず、抽出液をいくつもの化学成分に分けて、その一つ一つについて、抗脚気作用の有無を愚直に調べあげていった。この努力は5年間も続けられたが、成果はほとんど得られなかった。(中略)

こうしてついに1934年、ウィリアムズは、純粋な抗脚気ビタミンを結晶として大量に分離することに成功した。

フィリピンで研究を始めてから、23年が経過していた。その執念には、驚嘆するほかはない。(中略)

結晶として得られたビタミンの化学構造を決定し、それを合成するという仕事がまだ残っていた。

ウィリアムズはさらに3年をかけて、これらの課題も達成した。

高木兼寛が脚気にならない海軍の食事を改善してから、ビタミンB1が単離され、化学構造が決定されるまで、50年かかっています。長い道のりでした。

まとめ

私は日常的に発芽玄米を食べているので白米を買うことがめったにないのですが、昔(今も?)ビタミン強化米というのがあったなと思い出しました。

なぜ、そんなものがあるのか当時は分かりませんでしたが、今なら分かります。ビタミンB1を加えていたのですね。

最後に、麦や蕎麦、小豆のビタミンB1の含有量を調べてみましょう。

麦にはB1が入っている

精白米はビタミンB1がほとんどないのですが、きっとパンや小麦粉には入っているのでしょう。調べてみました。

押麦(おしむぎ)は大麦です。小麦粉の1等というのは、灰分の割合が0.4%前後という意味です。灰分が増えると等級が落ちます。ミネラルが増えると色が濃くなり、白くなくなって来るのです。

玄米、精白米とも炊いたご飯のことです。

精白米はたしかにビタミンB1の数値が一番低いです。毎日お米を食べているわたしたちからすると、パンはお腹がふくらまないのですが、それでもビタミンB1の含有量は精白米より、ましです。

蕎麦や小豆にもB1が入っている

江戸時代、江戸わずらい(脚気)に効果があったといわれる蕎麦や小豆についても調べてみました。ゆでた蕎麦はビタミンB1の量がずいぶん減ってしまいますが、生の蕎麦は十分な量があります。ゆでた小豆にも多く含まれています。

100g中のビタミンB1
含有量(出典
押麦0.06mg
薄力粉/1等0.11mg
中力粉/1等0.10mg
強力粉/1等0.09mg
食パン0.07mg
フランスパン0.08mg
ライ麦パン0.16mg
玄米0.16mg
精白米0.02mg
そば生0.19mg
そばゆで0.05mg
あずきゆで0.15mg
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