大豆の自給率はなぜ低いのか?

大豆は明治時代までは自給自足できていました。しかし、満州で大規模生産するようになると、国内の農家はつくっても儲からなくなり栽培するのを止めます。これが自給率が低くなった理由です。戦後は、アメリカから安く入って来ましたが、その後、大豆が不足する事態になり、ブラジルで生産してもらうようになっています。

安く買えるので他国から輸入し、国内で生産しない自給率の低い体制は100年続いています。

大豆

大豆が必要なのに大豆を輸入する

私は50代半ばを過ぎていますが、私の記憶では、小学校、中学校、高校でも日本の自給率について習った覚えがあります。ほとんどのものが自給できないのは今に始まったことではありません。

しかし、日本人に必要な、味噌、醤油、豆腐、納豆になる大豆がなぜ自給できないのだろう?すごく単純な疑問ですが、食料自給の話を読むときにいつも思い出していました。

日本の大豆食品のための自給率は26%

ある日、ネットを探していたら、農水省のこんなページを発見しました。日本人は大豆をむかしから食べているのに、なぜ自給率(じきゅうりつ)が低いのですか。:農林水産省

農水省からの回答は必要なところだけ書き出しました。この回答をしたのは平成15年(2003年)です。

日本人は大豆をむかしから食べているのに、なぜ自給率(じきゅうりつ)が低いのですか。

質問者:中学生

(前略)日本人が一年間に食べる大豆の消費量は平成13年で、約507万トンですが、そのうち約381万トンはサラダ油などの精油用に使われ、残りのうち、約100万トンが、豆腐、納豆、みそ、しょうゆなどの食品用として利用されています。

平成13年産の国産の大豆は、27万1千tが生産されており、食品用の自給率は26%となっています。(全体では5%)大豆の自給率の伸び悩みの理由としては、

(1)大豆は単収が低くかつ豊凶変動があり収益が安定しないこと、

(2)機械化が遅れ多労を要すること等が作付意欲を大きく減退させていることがあげられます。

最近は、消費者の食の安全性や生産履歴情報を確保する要請が高まっており、地産地消運動の高まりから国内産大豆の人気が高まっています。(後略)

しょう油、味噌、豆腐、納豆用としては26%しか自給できていないそうです。2000年頃のデータですが、現在もその数字は大して変わりはないと思います。

しかし、必要なものが自給できないというのはおかしな話です。一体いつからこうなったのか?

大豆はもともと明治時代まで自給できていた

川島四郎先生の続まちがい栄養学を読むと明治時代までは大豆は自給できていたそうです。特に徳川時代は平和な時代が続き、味噌も醤油も生産規模が大きくなり、豆腐の品質が上がったと書かれています。

続 まちがい栄養学
川島四郎先生が、昭和48(1973)年に出された続 まちがい栄養学は、42本の記事が収められた本です。時々読み返す魅力があります。平成元(1989)年に新潮文庫に収められましたが、もちろん現在では古本でしか入手できません。 私が古本と...

各地の大名は自国領土内の繁栄を企て、殖産興業に力を入れた。

この時期に味噌も醤油も工業的生産の色彩を帯び、大量生産が行われ、北は津軽味噌、仙台味噌、信州味噌、江戸味噌と銘打つ特産が現れ、各国、各村、はては各戸でもよい味噌をつくることが競われ「手前みそ」の名もこれよりおこった。

醤油は味噌よりさらに大量生産を有利とするので、北緯三四、五度の東西の線に並ぶ各地に醤油業が発達し、大豆の生産もこれに同調した。

豆腐は日本産の大豆の特性、火山灰土の畑、根粒菌の存在、水質、気温、それに日本人の器用さが手伝って、優秀な豆腐がつくられ、日本民族の豆腐好きの食習慣が拍車をかけて、品質は本場の中国の豆腐を遙かにしのぐにいたった。

納豆は、日本の風土気候が適合したので、北に南に日本各地に伸びていった。これらはいずれも大豆を原料とする食品である。

この調子がずっと明治まで続いた。

明治時代以降の変化

ところが明治30年代、1900年以降になると自給自足経済が崩れ、大豆栽培をやめて儲かる換金作物である桑の葉をつくる農家が増え、国産大豆だけでは間に合わなくなってきました。

全国味噌工業協同連合組合会発行のみそ文化誌を読むと、もう少し分かりました。

みそ文化誌

大豆から換金作物の桑の葉栽培へ

この時代、日本は繊維工業が盛んだったのです。養蚕業が栄え、大豆を栽培するより桑の葉を育てていた方がお金になる。どんな仕事でもよりよい条件で稼ぎを増やそうとします。

また、一方で朝鮮と支那から大豆が入って来るようになりました。

明治維新後、新政府は国民経済的商品作物の経営をめざして果樹園芸式農業の普及に努めたが、南部ダイズを産する岩手県をはじめ各地の農村のみそ自給の慣行は変わらず、つまり自給型を基礎としたダイズを含めた主穀式経営にはまだ変化がなかった。

しかし一九〇〇年代になると、商業経済の進捗にともなって自給自足経済がくずれはじめ、ダイズよりも割のよい換金作物に切り替える農家が相次ぎ、国産大豆だけではみそ醸造の原料をまかないきれなくなってきた。

一方、日本の大陸進出にともなって、一八八八八(明治二一)年には朝鮮ダイズが輸入され、ついで支那(中国)ダイズが輸入されはじめた。

やがて昭和初期には満洲ダイズが主力となり、そのうち朝鮮ダイズと満洲ダイズの品質はおおむね業界に好評であった。

ただし、ダイズの移入量と価格の変動はつねに醸造家の苦心するところであった。

これを長野県の例で見てみよう。信州のダイズは武田信玄の施策の遺産なのか、犀川沿いに生産が多く、特に西山ダイズが良質とされた。

ところが、養蚕景気が高まるとダイズ畑をクワ畑や他の作物に切り替えるようになり、自家用みそをつくるダイズにも事欠くようになった。

換金作物による収入でダイズを買ったほうが有利であったのだ。

県内ダイズが県内のみそ消費をまかなえたのは一九〇五(明治三八)年までであって、以後ずっと不足している。

折から開通した信越線・中央東線で北海道や東北のダイズを仕入れたのだが、一九一〇(明治四三)年に日韓併合が成立して朝鮮ダイズが大量に移入されるようになると、もっぱらこれに頼って信州みその発展をなしとげた。

朝鮮ダイズへの評価は絶大で、満洲ダイズが主力になったときも、業界の古老たちは朝鮮ダイズでなければ信州みその声価を落とすことになると憂えたほどである。

やがて、大生産地となった満洲の大豆に依存するようになります。

自給率が低いのは満州からの大豆に依存するようになったから

明治時代に起きた日清戦争、日露戦争をきっかけに日本が満州に権益を得ました。その後の満州事変以来、大豆が大量生産されるようになり、大豆を満州に依存するようになりました。

この間の流れは、満州事変の原因についてにとてもわかりやすく解説されています。

続まちがい栄養学には、この頃、大豆の国内生産が満州からの大豆に価格で負けて衰退していったことが書かれていました。

日清戦争も日露戦争も満州(現在、中国の東北地方)の野で戦われ、同地に権益を広め、特に満州事変以来、「満州は日本の生命線」として満州の特産大豆に大きな期待をかけた。

そして満鉄は大豆の増産に大きなウエートをかけ、成功した。当時満州だけで四〇〇万トンの大豆をつくった。

このころまでは日本は、大豆の自給自足が出来て、味噌、醤油、納豆、油まで自国で需給がまかなえていたのが、満州から安価な大豆がどんどん入って来るので、日本の農村の大豆づくりはこれに押されて下火になり、「隣の満州に大豆が余るほどとれて、ここからもってくれば」という満州依存の気持が、日本の大豆生産をそぐにいたった。

敗戦とともに満州を失い、大豆も失ったのに、日本国内では大豆をつくらず、工業立国を標榜して外貨をせっせと稼ぎまくり、この金で米国の大豆を買い出した。

最後の一文は、重要ですので覚えておいて下さい。

満州から大豆が世界に広がった

満洲で大規模に栽培されていた大豆の用途は、おもに肥料でしたが、ヨーロッパに輸出されるようになり食用油に加工され大豆粕は家畜の飼料になりました。

とても面白い本を見つけました。満洲暴走 隠された構造 大豆・満鉄・総力戦(角川新書 2015)です。これで満州の大豆のことがかなり分かりました。

大豆の主な用途は肥料

中国には京杭大運河があります。中国の北京から杭州までを結ぶ、総延長2500キロメートルに及ぶ大運河です。隋の時代に整備されました。

この大運河は、豊かな南の地方から北京に穀物を運ぶために使われていました。しかし、帰りに、空荷だと船は喫水線が上がって不安定になります。

そこで見いだされたのが大豆でした。北京付近の大豆を南方に運ぶことになり、生産量が増加しました。北京のすぐ北に満州があります。

わたしたちは、味噌、醤油、納豆、豆腐を日常的に食べているので、大豆は食べものだと思っています。しかし、大豆の一番の用途は肥料なのでした。

上海近辺で肥料がたくさん必要になる木綿の生産が増加してくると大豆の需要が増えます。さらにもっと南の台湾の向かいくらいの地域でサトウキビの生産が始めると、さらに肥料として大豆の需要が増えました。

肥料に使われるのは、大豆粕といって、大豆から油を搾った「かす」のことです。大豆油はサラダ油の原料です。私も含めた日本人は(多分)何十年もサラダ油を使って来ましたが、大豆油は副産物で、本当に必要なのは大豆粕だったのです。

日本でも食用ではなく、肥料だったようです。

この満洲大豆が、日清戦争後、日本にも運ばれるようになります。主に肥料としての大豆粕です。大豆のままでも食用になったようですが、国産や朝鮮産より味が落ちるとされていました。

ともかくこの大豆粕は田畑に入れられまして、生産効率の向上に大きく寄与しました。

ヨーロッパに輸出されて食用油と飼料に

さらに、日露戦争後、満州の大豆はヨーロッパまで運ばれるようになり、食用油としてマーガリンに加工され、また、大豆粕は家畜の飼料になりました。

まずはドイツです。ドイツでそのころ化学工業が発展して、いろんな油を効率よく搾れるようになりました。

最初はゴマを使いましたが、ゴマは高価ですので、世界中からいろいろな「油のもと」を掻き集めました。アフリカのパーム油や満洲の大豆などです。

これらが加工されて、たとえば、マーガリンになって食卓にのぼったのです。(中略)

また油を搾ったあとの大豆粕は、オランダやデンマークやイギリスでは家畜飼料にもなりました。(中略)ヨーロッパでは家畜に食べさせたのです。

タンパク質が入っていますので、家畜がよく育ちます。ついでにそのとき出る糞尿を畑に入れて、作物も育てました。

大豆は含油率が20%くらいしかありません。機械的に搾るのはかなり大変です。それで、化学的に溶剤で大豆の油分を溶かしてしぼり出すのです。

ところで、大豆を輸入していたドイツをはじめとするヨーロッパでは大豆の生産は行われないのでしょうか?

特にドイツはたくさん搾油していたので、栽培してもおかしくありません。

ヨーロッパでは大豆は育たない

ところが、ヨーロッパでは大豆を育てるために必要な根粒菌がいないため、大豆の栽培ができないのです。

川島四郎先生とサトウサンペイさんの続 食べ物さん、ありがとう―日本人の栄養学講座にその話題が出てきます。

続 食べ物さん,ありがとう
「食べ物さん、ありがとう」シリーズの2冊目の本、続 食べ物さん,ありがとうをご紹介します。もう古本でしか手に入らないですが、食べ物と健康について関心のある方なら持っていて損はないですよ。 「まえがき」には、川島先生が『お陰様で「食べ物...

先生 (前略)だって、サンペイさん、そもそもヨーロッパでは大豆の栽培ができないのですから。

サンペイ エッ、そうなんですか。

先生 今から七百年前、ジンギスカンがヨーロッパに攻め込んだとき、大豆とソバを持っていき、進軍していった土地で大豆とソバをまきました。

ソバは、ヨーロッパの大地でも育ちましたが、大豆は全然育ちませんでした。

サンペイ ホウ。なぜですか。

先生 ヨーロッパの大地には、大豆の実をならせるのになくてはならない根粒菌(こんりゅうきん)がいないからです。

サンペイ 根粒菌って何ですか。むずかしいものがでてきたなァ(笑い)。

先生 大豆の根を掘り出してきて、根を見ると、小さなコブのようなものがたくさんついています。これが根粒菌の集まりで、大豆のようなマメ科植物の根にくっついて生活している細菌の一種なんです。

こいつはね、大豆の根にくっついていて、空中の窒素をつかまえては窒素の化合物を作って、大豆に与えてやる仕事をしているんです。

サンペイ 小さな体で、大きな家主を養っている、ってわけですか。

先生 そうなんです。根粒菌が作ってくれる窒素の化合物(たんぱく質)をもらってはじめて、大豆は実をつけることができるんです。(中略)

明治時代に、ウィーンで開かれた万国博覧会へ、日本は、大豆と寒天を出品しました。そのとき、ヨーロッパ人は、大豆をみてびっくりしましてね、フランス人は、”真珠のごとき豆”といいましたが、ドイツ人は”畑の肉”といって賛美したんです。

ドイツ人は大豆の何たるかを知ろうとして、大豆の成分を徹底的に分析したのです。さすがです。

サンペイ ドイツ人は、大豆を欲しがったでしょうね。

先生 すぐ日本から大豆を輸入して、栽培を始めました。ところが、どうしても実ができない。

ドイツは、日本が実のできない種を送っているに違いない、と怒りましてね。そこで、ドイツに送った大豆を日本に送り返して栽培したら、ちゃんと実がなった。

サンペイ で、ドイツは次に何をしたんですか。

先生 日本で実がなった大豆を、根こそぎ持って帰って研究しました。それで、根粒菌の役割が明らかになったのです。

サンペイ アメリカは大豆の大生産地ですね。

先生 アメリカの大地には根粒菌がたくさんいるらしくて、今やアメリカは、世界一の大豆の生産国になりました。(後略)

根粒菌がいないと実がならないと初めて知りました。

アメリカは大豆生産を始めて10年程度で世界一の生産国に

満州は当時、世界最大の大豆生産国でしたが、それから第二次大戦後までのわずかな間にアメリカが世界最大の大豆生産国になりました。

その経緯は、日本の大豆搾油業の黎明エピローグに書かれていました。

ところで現在世界最大の大豆生産国であるアメリカは、そのころどんな状況だったのでしょうか。

アメリカで製造される植物油は綿実油が牽引してきましたが、大豆搾油が1911年に開始されたとされています。

しかしその後も第一次世界大戦に至る10年余りは大豆油の供給を日本からの輸入に依存していました。

アメリカが現在のような大豆の大生産国になるきっかけは、第二次世界大戦でした。

アメリカでは「大豆の供給を増やすことが、戦争に勝利することである」というキャンペーンを掲げて大豆の増産を図り、1942年ごろに世界最大の大豆生産地となり、世界最大の搾油国になります。

1930年、アメリカで大豆生産はまだゼロ

さらに、「アメリカ農業 現状・歴史・政策」(服部信司著 輸入食糧協議会 1998)を読むと、もう少し詳しく分かりました。

何と、1930年時点では、アメリカの大豆の収穫面積はゼロだったそうです。

大豆は大恐慌下の1930年代において、初めてアメリカ農業に導入された作物である。

第2次対戦期にフィリピンからのヤシ油が輸入途絶となり、それに代わる食用油原料として大豆の生産に強い刺激が与えられた。こうして、大豆の生産拡大が軌道に乗りだした。(中略)

大豆は、30年代において、それまでの燕麦に代わるトウモロコシとの輪作作物として、コーンベルトにおいて本格的に導入され、以降、トウモロコシとの輪作作物として急拡大してきたのである。

トウモロコシとの輪作、つまり、整備された農地がすでにあるとはいえ、わずか10年程度で世界最大の生産国になるのですからすごいですね。

用途は、輸出以外は、破砕されて油をしぼることと、残った粕が使われていました。

大豆を破砕(クラッシング)することによって、大豆から食用油をとり(搾油)、その粕は、蛋白含有量の多い良質の飼料となる。(中略)

戦後→今日に至るなかで、大豆の国内用途(食用油・高蛋白質飼料)が拡大してきたのは、マーガリン調理用オイルの原料としてラード(動物油)に代替するとともに、ドレッシング用オイルとして急拡大してきたことによる。

1950年の油脂消費の内訳では、動物油と植物油がそれぞれ半々であったが、80年には、植物油の1人当たり消費量は50年の2倍に達し、植物油が、油脂消費の6分の5を占めるに至ったのである。

その背景には、植物油としての好ましい健康のイメージもあった。

アメリカでは、豆腐も味噌も納豆も食べませんから、食用油と粕を飼料とした2つの用途だけです。大豆は蛋白質が多く栄養豊富だからとてもよい飼料になっていたのではないかと思います。

それにしても、アメリカの「大豆の供給を増やすことが、戦争に勝利することである」というキャンペーンといい、たった10年程度で世界一の生産国になったことといい、計画的に着々と進めているのが分かります。

日本は戦争に負け、満洲を失い、大豆が入って来なくなると戦勝国のアメリカから売ってもらうようになります。

マンガの筋書きでもこのままで済むとは思えません・・・。

アメリカが大豆を売ってくれないのでブラジルで農地開発

アメリカが大豆を売ってくれなくなり、日本政府はブラジルの農地を開発する事業にお金を出し、ブラジルで大豆を生産してもらうことにしました。

続まちがい栄養学を私は文庫本で買いましたが、単行本の初版は1973年(昭和48年)12月と書かれていました。この頃起きた出来事を、川島先生はこのように書かれています。

そこへ、不意に米国の大豆不売の爆弾がおちたのである。前から約束してあるのに、米国の一方通行の輸出規制で日本に大豆をやらぬというのである。

なぜ売ってくれなくなったのか、調べていくと今後、穀物の国際需給を担う新興農業開発地域-ブラジル・マトピバ地域に事情が書かれていました。

ブラジルの大豆生産は、1960年代、南部の小規模農家から始まった。1970年初めに、ペルー沖かたくちいわし(アンチョビー)の不漁による動物性たんぱく資源の不足から大豆の国際相場が高騰し、米国は大豆の禁輸措置をとった。

この際、米国からの輸入に依存していた日本への影響は大きかった。このことを背景として、1974年、当時の田中元首相は、日本の国土の5倍以上となる2億ヘクタールのセラード地域を対象に「セラード農業開発事業」を行うこととした。

なぜかたくちいわしが不漁になると大豆の相場が上がるかというと、上でも書いたように大豆が肥料して使われていたためです。かたくちいわしは日本でも肥料として使われていました。

日本はブラジルに大豆を生産してもらうことにしたのですね。1970年代の初めは、日本は工業の時代でした。この事業が奏功して、今やブラジルはアメリカと並ぶ世界最大の大豆生産国となっています。[World]生産と消費量で見る世界の大豆事情

満洲の大豆に依存して以来、ずっと他国の大豆に依存しているのです。

ところで、最近のアメリカとEUの大豆をめぐるやりとりの話がありました。

大豆が通貨に変身した?

豆の歴史 (「食」の図書館)を読むと、こんなことが書かれていました。

2018年、最初の中間選挙を目前に控えたアメリカ大統領ドナルド・トランプのもとに、欧州委員会委員長ジャン=クロード・ユンケルから通知が届いた。そこには、ドイツの自動車産業に報復関税をかけるという脅しをトランプが取り下げることに合意すれば、アメリカ産大豆の輸入を大幅に増やすと書かれていた。

ユンケルは、トランプがはじめた世界貿易戦争に泡を食った多国籍企業からプレッシャーを受けていた。ヨーロッパの気候は大豆栽培に適さないが、ヨーロッパは、動物の飼料や乳の原料としてこの安価な作物に大きく依存している。一方、アメリカにとってもこの合意は非常に価値のあるものだった。

2018年、アメリカは生産した大豆の37パーセントをヨーロッパに輸出した(前年はわずか9パーセント)。大豆外交は、大豆が地味な農産物から競争力を備えた通貨に変身したことを示す具体的証拠となった。

まとめ

日本人は味噌、醤油、豆腐、納豆として毎日のように調味料やタンパク源として大豆を食べているのに、満洲からの大豆に依存を始めてから100年。ずっと他国に依存しています。

1970年代にアメリカが大豆を売ってくれなくなったのは、かたくちいわしが不漁だったからですが、今後似たようなことが起こらないとないとは限りません。

普段は何とも感じていませんが、もう何年も前のことになりましたが、テレビ番組の効果で納豆が売り切れて1ヶ月以上ずっと買えないことがありました。

一度不足すると、案外、食料供給体制はもろいものなんだなと思いました。もし、大豆が足りなくなったらどうしますか?

たまに私は、妄想する時があります。

藻のように短時間で増えるものが家庭で培養できて、タンパク源として食べることができたらいいなと思います。

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