鮭缶の始まりから衰退するまでのはなし

鮭缶は、1820年代から作られるようになりました。大量に獲れるものの人気がなかったカラフトマスを使うことで、安く大量に供給できるようになりました。しかし、1970年頃からツナ缶にその地位を譲り、以前ほどの人気はなくなってしまいました。しかし、鮭は、今や養殖され、生で空輸される時代になっています。

鮭缶

鮭の歴史 (「食」の図書館)を読みました。このシリーズは本当に知らないことを教えてくれます。面白い本が多いです。

今は、安くてオメガ3の脂肪酸EPAとDHAが豊富なサバ缶ブームです。鮭缶というと、少し高い印象があります。私は北海道で育っているので鮭はよく食べましたが、鮭缶はたくさん食べたなという記憶はありません。

この本を読むと、鮭缶はどのようにつくられてどのように衰退していったのかが分かります。とても面白い。

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缶詰の発明

まず、缶詰は一体いつからあるのでしょう。公益社団法人日本缶詰びん詰レトルト食品協会のサイトの中にかんづめハンドブックがあり、その中に書かれていました。

缶詰、びん詰、レトルト食品について理解を深めていただくためのページです。

缶詰の原理は1804年にフランスで生まれた

保存食の技術は戦争によって発展していくようです。

金属缶やガラスびんの中に、食物を入れて密封し加熱殺菌して保存する缶詰の原理は、今から約200年前の1804年にフランス人のニコラ・アペールによって初めて考え出されたもので、その時の皇帝ナポレオンによって12,000フランの賞金が与えられたとのことです。

そのとき丁度、ヨーロッパ各国へ戦線を広げていたフランス軍の食料として、アペールの作ったびん詰が活用されて、大いに士気を鼓舞したといわれています。

いま見られるようなブリキ缶は1810年イギリスでピーター・デュランによって発明され、間もなく缶詰工場が誕生しました。

その後、1821年にアメリカへ渡って缶詰の製造が本格化し、1861年南北戦争が始まってからは、軍用食料としての缶詰の需要が急に増え、当時約4,000万缶の生産をみるようになりました。

こうして、アメリカの缶詰産業は広い国土と豊かな果物や野菜の原料資源に恵まれて、近代的な食品工業として大きく発展しました。

わが国の缶詰は、今から約140年前の1871(明治4)年に長崎で松田雅典という人がフランス人の指導で、いわしの油漬缶詰を作ったのが始まりです。

間もなく1877(明治10)年には、北海道で、日本初の缶詰工場、北海道開拓使石狩缶詰所が誕生し、同年10月10日にさけ缶詰が製造されました。

明治時代になると、すぐに北海道には開拓使が置かれ、あっという間に札幌農学校(北大)やサッポロビールの前身になる官営の開拓使麦酒醸造所がつくられていましたが、同じ頃に缶詰工場もつくられていたんですね。

1877(明治10)年には鮭の缶詰がつくられていたことを覚えておきましょう。

鮭缶は1824年からつくられた

再び、鮭の歴史 (「食」の図書館)に戻ります。

最初に缶詰になった食品は、鮭、牡蠣、ロブスターなどだった。(中略)1824年、スコットランドのアパディーンでディー川とドン川の合流する地点に建てられた缶詰工場が、世界初の鮭の缶詰工場とされている。

カナダのニューブランズウィック州の都市セント・ジョンは、ヨーロッパ以外ではじめて鮭の缶詰工場が建てられた町という歴史を誇っている。その缶詰工場は1839年にセントジョン川がファンディ湾に注ぐ地点のやや上流に建設された。

世界で初めての鮭缶工場ができたアパディーンの場所を調べました。

イギリス

セント・ジョンは、大西洋沿岸の街です。

最初はこのように大西洋側で鮭缶工場ができましたが、太平洋側に移っていきます。

鮭缶製造の中心地はアラスカ

その後、ブリティッシュ・コロンビアとアラスカで鮭の缶詰製造業が急速に発展し、さらに世界の鮭の缶詰の中心は、アラスカに移っていきます。こちらは太平洋側です。

ブリティッシュ・コロンビア州の位置。

そして、アラスカ。

アメリカ合衆国 アラスカ州

もちろん、移っていくのは鮭がたくさん獲れるからです。

20世紀半ばになるとアラスカの鮭の缶詰の生産量は世界のおよそ4分の3に達し、国内の市場だけでなく、ベルギー、オランダ領東インド[オランダが植民地支配していた現在のインドネシアにあたる地域]、メキシコ、フィリピンの市場にも輸出された。(中略)

1890年代にはカナダとアメリカが世界の鮭の缶詰生産の99パーセントを担っていた。しかし、1900年代に日本が海で獲った鮭を缶詰にすることに成功してから、次第にこの産業での日本の存在感が大きくなっていった。

日本の鮭の缶詰産業が短期間に盛んになったのは、主に日露戦争が原因だった。この戦争によって日本は国として自給自足に向けた努力を余儀なくされ、日露戦争で敗北したロシアの大幅な譲歩で得た日本の漁業領域が、日本の自給自足を確実に後押しした。

1930年には、日本の缶詰産業の主力は鮭の缶詰になり、日本のすべての缶詰食品のおよそ半分を占めるようになった。

20世紀半ばには、アラスカの鮭の缶詰の生産量は世界のおよそ4分の3になる、また、1890年代にはカナダとアメリカが世界の鮭の缶詰生産の99パーセントを占めるというところがすごいところです。

ほとんど、カナダとアメリカで独占している状態です。

さらに日本も出て来ました。

日本の鮭缶

日本は1900年代に海で獲った鮭を缶詰にすることに成功したと書かれていました。少し調べてみると、あけぼのさけ誕生100周年というページが出てきました。

北海道・道東沖の、脂の乗ったからふとますを使用しています。旬の間だけのシーズンパックで美味しさをとじこめました。正にあけぼのブランドの顔と言える商品です。

それを読むと、あけぼの(旧ニチロ)が初めてサケ缶を製造したのが1910年(明治43)。

その後、1929年(昭和4)には、獲った鮭を港に水揚げしてから缶詰加工するのではなく、母船で缶詰に加工できるようになりました。母船が缶詰工場なのです。

缶詰工場が一緒についてくるので、鮭を追ってどこにでも行けるようになります。

1929(昭和4年)

母船式サケ・マス漁業開始
缶詰が母船で生産されるようになる
初年度生産16,000函

サケ・マス漁全盛期へ
昭和7年 神武丸、信濃丸の母船2隻に独航船10隻、漁夫600名という船団で出漁。ベニサケ90万尾、シロサケ23万尾、マス36万尾を漁獲。塩蔵及び缶詰7万函(ベニサケ6万函)を生産。カムチャッカを現場、函館を基地として、全国に商品を流通させていく。

母船式は、漁業専管水域200海里時代(1977年 昭和52)まで盛んに行われ、以後規模を縮小し、1988年(昭和63)に母船式北洋サケ・マス船団は最後の操業を行って終了します。

さて、鮭缶で脚光を浴びたのが鮭の中でも、カラフトマスでした。

カラフトマスの利用

鮭の歴史 (「食」の図書館)に戻ります。

鮭缶にはカラフトマスが使われました。

缶詰が登場するまで、鮭を保存するために塩漬け、燻製などに加工されていました。しかし、カラフトマスはその加工に向いていなかったのです。

1890年代を通じて、カラフトマスは特定の地域で好まれてはいたが、世界市場での価値はきわめて低かった。

太平洋岸の小さな川で誕生するカラフトマスは肉がやわらかいため、商業的な保存加工にはほとんど使えなかったからだ。(中略)

カラフトマスのやわらかい肉は商業的な保存加工には向かなかったが、缶詰商品にはぴったりだった。また、鮭の中では漁獲量が世界一多いので、缶詰業者の立場からは、安く簡単に大量生産ができるという利点があった。

漁獲量が多い

カラフトマスの漁獲量が多いのは、はっきりした理由があります。

カラフトマス(学名 Gorbusha)は小さな川に適応して進化したので、生存に必要なエサを獲得するため、ほかのどの種類の鮭よりも誕生してから短期間で海に出ていく。

ベニザケやキングサーモン、ギンザケは孵化してから数年間淡水で成長するが、カラフトマスは生まれて数か月で海に出る。カラフトマスは海で豊富なエサを食べて成長するため、栄養分の少ない淡水の生態系で育つ鮭に比べれば、より多くの稚魚が生きのびて成魚になる。

ピンクサーモンと改名

カラフトマスは、背中のコブを意味する「ハンプバック」サーモンと呼ばれていました。それを変えて、新たに「ピンクサーモン」と名付けられました。肉が薄紅色だったからです。こっちの方がおいしそうな感じがしますね。

もちろん、改名したのは鮭缶を「売る」ためです。いま「ピンクサーモン」と聞いても食べてみたい気持ちになります。

ハンプバックからピンクサーモンに改名されたカラフトマスは、第2次世界大戦が始まる前に、すでに缶詰業者の間で人気が高まっていた。

わずか20年ほどの間に、カラフトマスは無価値な魚から缶詰の王様に変貌を遂げたのである。実際、カラフトマスを利用したことが、鮭の缶詰が世界中に広まるひとつの大きな要因になった。

ほかの6種類の鮭[キングサーモン、シロザケ、ギンザケ、ベニザケ、サクラマス、アトランティックサーモンを指す]は、味は消費者に好まれたとしても、少なくとも漁獲量の少なさという現実的な理由で、缶詰商品として主流になりえなかった。

鮭缶は、カラフトマスを使うことで大量に供給することが可能になり、値段が安く、そして用途が広い食品として世界中に受け入れられることになりました。

鮭缶が健康に役立つ

いまのサバ缶ブームと変わらないです。もちろん、鮭缶も食品分析表を見れば炭水化物がほとんどない、タンパク質とオメガ3の脂肪酸を含む食品です。

アメリカでは、化学者で近代栄養学の創始者でもあるW.O.アトウォーターが、鮭を食べれば高価な肉と同じ栄養がずっと安い値段で得られると述べて、アメリカ人にもっと鮭を食べるように推奨した。

雑誌『アメリカの農家 American Agriculturist』では、ある記者が「良質で新鮮な鮭の8オンス[約227グラム]入りの缶は、現在この国の食料品店では小売価格18セントで買える」と述べ、「サーロインステーキは1ポンド[約450グラム]20セントから25セントだが、同じ重量で比較すると鮭より栄養価は低い」と指摘した。

良質な食品であることは間違いありません。

戦場での食料として

第1次世界大戦、第2次世界大戦ともに鮭缶は糧食として使われました。もともと缶詰自体がそのような目的のために発明されたので、当たり前といえば当たり前です。

アメリカでもイギリスでも、缶詰の鮭は戦場での料理の中心を担っていた。あるアメリカの出版物は、缶詰の鮭には「陸軍に勤務しているようなたくましい青年の味覚と身体的な要求を満足させるものが」含まれていると述べた。

戦場では兵士は缶から直接鮭を食べ、駐屯地では、この血気盛んな若者たちは鮭をサーモンケーキ[鮭をマッシュポテトと混ぜて丸めて衣をつけて揚げたもの]やサーモンハッシュ[マッシュポテトと一緒に炒めたもの]、パティ[平たく丸めて焼いたもの]にして、必要な栄養を補給した。

鮭缶の勢いが失われた

私は鮭というと塩鮭を思い出します。鮭缶が安かった時代(?)にたくさん食べた記憶がないのは北海道で育ったからだと思います。給食にも石狩鍋が出てきましたから。

1970年代に入る頃には、それ以前の多くの食べものと同様に、缶詰の鮭は世界全体で料理、文化、経済面での重要性を失った。

鮭の缶詰の全世界での生産量は、アラスカでの一時的な鮭の不漁も原因となって、1940年代の全盛期から大きく減少した。1940年代にはアラスカで1億匹の鮭が水揚げ、加工、出荷される年が続き、そのうちの90パーセントを缶詰が占めていた。

その後、漁獲高は減る一方で、1970年代には戦前の15パーセントまで落ち込んだ。

漁獲高が減ると、どうしても値段が上がります。そして、この後、鮭缶はツナ缶にそれまでの位置を明け渡すことになります。

ツナ缶と交代

ひとつ原因をあげるとすれば、ツナ缶の生産と消費の世界的な増加が、鮭の缶詰の衰退の一因になっている。鮭の缶詰の料理上の競争相手となったツナ缶は、20世紀後半に海産物の缶詰の世界的な消費と生産に変革をもたらした。

鮭は寒い所で獲れる魚ですが、ツナ(まぐろ)はどこででも獲れます。生産する国が増えれば、供給量が増え価格は下がります。もちろん、その影響で今はマグロが獲れなくなり高い魚になっていますけれども・・・。

ツナ缶は私も1980年代はよく買いました。ツナスパゲティやツナサンドも人気がありました。

ツナ缶は1903年からあった

ところで、マグロの油漬け缶、ツナ缶について調べてみると、ウイキペディアにこのように書かれていました。

ツナ缶

ツナ缶は1970年代の少し前から出て来たのかと思っていましたが、1903年にアメリカで発明され、日本でも1929年には製品化されていたのです。

マグロ油漬け缶詰は1903年にアメリカで発明され、たちまち人気商品となった。日本でも各地の水産試験場において研究が進められたが、なかなか高品質の製品を送り出すには至らずにいた。1929年に静岡県の水産試験場が開発した製品が、日本におけるマグロ油漬け缶詰の最初の成功例である。(出典

さらに、中日新聞(2012年11月28日)静岡経済ヒットの系譜『はごろもフーズ「シーチキン」(上)』を読むと、はごろもフーズが「シーチキン」を商標登録したのは、1958年(昭和33)のことです。いい年した私もまだ生まれていません。

 昭和初期に米国への輸出用に開発されたツナ缶が、今では日本の多くの家庭のキッチンにある。はごろもフーズ前会長の二代目後藤磯吉が世に出した「シーチキン」。

なぜ、1970年代(多分終わり頃)まで普及しなかったかというと、きっと値段が高かったからではないかと思います。こういう時の理由は単純なものです。

ボツリヌス菌による事故

私はこの事故についてニュースを見た記憶がないです。日本では話題になっていなかったと思います。

1982年2月、ベルギーのブリュッセルでエリック・マテとその妻が、アラスカのケチカン産の鮭缶で作ったパテ[細かくした肉や野菜をパイ生地で包んで焼いたもの]に舌鼓を打っていた。

しかしこの食事は20世紀最大の影響力を持つ事件となった。1週間後の2月7日、この27歳のベルギー人はボツリヌス中毒で亡くなった。(中略)

問題となった鮭缶のボツリヌス菌は不完全な缶詰製造技術が原因だと結論づけられ、アメリカ食品医薬品局は世界で2番目に大規模な食品リコール[製品に欠陥がある場合、生産者が無料で回収・修理すること]を命じた。(中略)

鮭の缶詰はすでにどんどん重要性を失いつつあったが、この事件で評判は地に落ちてしまった。1987年には鮭缶の生産と、おそらく消費も、20世紀半ばの絶頂期の10分の1まで減り、世界的にどん底状態になった。

鮭缶の人気は昔ほどではなくなったのですが、鮭が食べられなくなったわけではありません。

養殖と空輸の時代へ

鮭缶は保存して好きな時に食べられるようにするためのものでした。ところが、今はいつでも生の鮭が食べられる時代になりました。

アトランティックサーモン(タイセイヨウサケ)が養殖されているのです。

ノルウェーやスコットランド沿岸の浅い海に網を張って作られた生け簀(いけす)で養殖されていた。

養殖場でアトランティックサーモンは一年中水揚げされ(ポンプで吸い上げている!)、ジェット機の貨物室に載せられて、昔なら考えられなかったようなスピードで人々の食卓めがけて飛んでいくのだ。(中略)

たった10年で、養殖業者が供給する安価なアトランティックサーモンが世界の台所を席巻し、ノルウェー、スコットランド、チリ、ブリティッシュ・コロンビア沿岸での鮭の養殖場が爆発的に増えた。

確かに、いつからかスーパーに行くと外国産の鮭を見るようになりました。養殖しているのでいつでも供給可能になっているのです。空輸してもコストが合う時代なんでしょう。

まとめ

鮭は栄養豊富な魚ですが傷みやすく、塩漬けや燻製など、長期間保存する方法がいろいろと考えられてきました。

しかし、缶詰の発明によって鮭の長期保存が可能になり、また、それまで大量に獲れても人気がなかったカラフトマスを缶詰にすることで、大量に低価格で供給することが可能になりました。

安くておいしい、肉の代わりになる栄養豊富な食品としてたくさん食べられました。

しかし、1970年頃から漁獲量が減り、徐々にその地位はマグロ油漬けのツナ缶に取って代わられるようになり、それまでに比べると鮭缶は食べられなくなってきました。

しかし、今度はアトランティックサーモンが養殖されるようになり、1年中、生で空輸される時代になりました。

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