マルセイバターサンドは北海道みやげの定番ですが、六花亭のお菓子は何を食べてもはずれがありません。なぜ札幌でなく帯広のお菓子メーカーがこんなに有名になったんだろうと思っていたのですが、「お菓子の街をつくった男―帯広・六花亭物語」を読んでよくわかりました。
六花亭のバターサンドは人気
毎年、広島に住んでいる後輩に、物々交換で必ず送るのがマルセイバターサンド。都内では、たまにスーパー(東急ストア)に入荷しますが、常時買えないので、通販に頼んで送ってもらいます。
千歳空港に行くと、マルセイバターサンドは山積みされて販売されています。もちろん、どんどん売れます。出張帰りに買うおみやげとして、間違いなく喜ばれるものです。価格が高くなくておいしい。
私はお菓子にあまり興味がなかったのですが、同僚におみやげを買うときは、品物が確かなものか気にするようになりました。特に女性は厳しいですからね。
しかし、北海道の六花亭のお菓子は何を食べても間違いがなく、なぜこんなにおいしいのだろうと思っていました。しかも、(失礼ながら)札幌でなく、帯広にあるメーカーなのです。
帯広市は小さな街ではないですが、ウイキペディアで1970年から2015年までの記録を見ると、人口は13万~17万人程度で推移しています。札幌は100万都市ですから、お菓子を売るなら札幌に本社を構えた方がよいに決まっています。
ずっとその理由を知りたいと思っていました。
六花亭のお菓子を東京で買うなら
先に、東京で買えるお店を書いておきましょう。北海道どさんこプラザが、有楽町と池袋にあります。また、都内ではありませんが、さいたま市と相模原市(相模大野)にもあります。
マルセイバターサンドなら、確実に買えます。
また、六花亭のサイトには、各地催事への出品のご案内があり、デパートなど催事予定を知ることができます。
TBSがっちりマンデーに登場
TBSの人気番組、がっちりマンデー2018年1月14日に、「ほぼ日の糸井社長が気になる老舗お菓子メーカー「六花亭」の秘密!?」で六花亭が登場しました。
放送された内容で一番印象に残ったのは、六花亭では毎日、社内報「六輪」が発行されていること。1人1日1情報制度というのがあり、従業員は、毎日1ネタ、231文字以内で提出しているというのです。これはすごいなと思いました。
アイディアは、毎月出せといわれるより、毎日出せといわれた方が習慣になるので出るに決まっています。
そして、よい変化は働く誰にとっても嬉しいことです。それを全員で共有しようというのですから、六花亭のお菓子の品質がよい理由がわかったような気がしました。
しかし、相変わらず、なぜ帯広にあるのかわかりませんでした。
お菓子の街をつくった男―帯広・六花亭物語を読んだ
六花亭について書かれた本がありました。お菓子の街をつくった男―帯広・六花亭物語というタイトルです。たまたま図書館に並べてあったのを見つけました。子ども向けの絵本です。
内容をかいつまんで書きましょう。
六花亭の創業者は、小田豊四郎さんという方です。
父親の会社が倒産し、おじさんのお店、札幌千秋庵で修行したことがお菓子づくりのスタートでした。
働き始めて4年目の夏、昭和12年(1937)に、別のおじさんのお店、帯広千秋庵の経営を任されることになりました。おじさんが病気のためお店を続けられなくなったのです。
当時の人口は、札幌が20万人に対し、帯広は3万8千人。
札幌千秋庵時代の教えは、「どんなに高くてもいいから、いちばんよい材料をつかって、おいしいお菓子をつくれ」でした。それを生涯守ります。
帯広でお菓子をつくり始めても、最初は、売れ残りが多かった。
それで、お客さんを開拓に出かけるようになりました。まず、帯広市内の会社社長、弁護士、医者などの家に御用聞きに行きました。
さらに、葬儀社に毎日行き、葬式の予定を聞き、葬式で使うお菓子の注文を取りました。その足で帯広神社にも行き、結婚式の予定を聞いて、引き出物に使うお菓子の注文を取りました。
また、産院にも行き、その日生まれた赤ちゃんの家を聞いて、誕生祝いのお返しのお菓子の注文を取ったそうです。
しかし、昭和14年(1939)8月に、店のやりくりはどうにもならないところまで来ていました。借金が500円近くにふくらんでいたのです。
当時、大工さんの手間賃は、1日3円36銭(1940年)。月に休みなく30日働いても100円ほど。内閣総理大臣の給料が月800円(1933年)だったことからしても、500円は大金でした。
そんなある日、札幌の塚本食糧興業株式会社の鎌田長市社長が来て、500円貸してくれました。ただし、貸してくれる条件は、たまっている支払いにあてないで、砂糖を買うことでした。もちろん、その通りにしました。
しかし、それからまもなく、日中戦争の影響で物価統制令が敷かれ、ものが自由に売買できなくなりました。お金があっても砂糖が買えない状態になったのです。
砂糖をたくさん持っていたおかげでお菓子を作ることができ、やがて帯広千秋庵の前に行列ができるようになりました。
昭和16年(1941)には商売が軌道に乗り、その後、召集令状が来て3年間の軍隊生活のあと、帯広に戻りました。
お菓子作りに必要な工場も道具も戦争のためになくなっていましたが、入手できたはちみつと卵と牛乳を使ってアイスクリームから作り始めました。
安い甘味料サッカリンやズルチンがよく使われた時代でも「いちばんよい材料で、おいしいお菓子をつくりなさい」という教えを守り続けました。
昭和27年(1952)8月に、帯広の開拓70年と帯広市になってから20年目を祝う式典の記念品全てを任されることになりました。
豊四郎さんは、資料を読むうち、「晩成社」をつくり十勝地方を初めて開拓した依田勉三の句、「開墾の はじめは豚と ひとつ鍋」に心を動かされました。
開墾を始めた頃は貧しくて、豚がエサを食べた鍋で、自分たちも食事をしたという意味です。そこで「ひとつ鍋」というお菓子をつくりました。
また、郡山市のお菓子屋さん「柏屋」が発刊していた児童詩誌「青い窓」を読んで、子供の詩に深く感動し、昭和35年(1960)から児童詩誌「サイロ」を毎月発行しています。
昭和42年(1967)、ヨーロッパとアメリカに視察旅行に行き、チョコレートを作るようになりました。普通のチョコレートの他にホワイトチョコレートも出しました。しかし、最初は反応がよくありませんでした。
その後、昭和47年(1972)頃から、北海道旅行が流行り始め、若者にホワイトチョコレートが売れるようになり、その後ホワイトチョコレートに爆発的な人気が出ました。
しかし、札幌千秋庵から十勝地方以外で売ることを許可されなかったため、帯広千秋庵ののれんを札幌に返して、昭和52年(1977)六花亭と社名を変更しました。
これが、だいたいのあらすじです。
六花亭が帯広に本社がある理由がよくわかりました。そうそう北海道には千秋庵というお菓子屋さんもあるのです。
そして、高橋玄洋さんがあとがきを書かれています。
みなさんはこの本を読んで、小田豊四郎さんの生き方にどんな感じを持ったでしょう。私がお会いして最初に感じたのは、「筋の通った人」ということでした。そして「やましさのない人生を送ってきた人だなぁ」と思ったものです。きっと顔の明るさにそれが出ていたのでしょう。(中略)
ふつう、会社を経営する人たちは、利益をあげて事業を大きくし、お金をもうけて同業者にも勝ち、企業家として成功しようと考えるものです。
商売をするからには当然といえば当然のことですが、小田豊四郎の志はもっともっと深いところにあったのです。
「社会に役立つ仕事をしよう」
そのためには売れさえすればいいというお菓子づくりをしてはならない。おいしいお菓子をつくるのに手間をおしんではならない。どこまでもお客さんに喜んでもらえることが一番だ。
買う人に、「六花亭なら間違いない、六花亭のお菓子なら喜ばれる」と思われるようになるには、企業家として成功しようという気持ち以上の志が必要なのだと思います。
まとめ
本を読んでから調べてみると、ウイキペディアにも六花亭の詳しい解説がありました。
六花亭への改名を記念して「マルセイバターサンド」を発売とありましたので、1977年から40年も販売されているお菓子でした。ちなみにスーパーで見かけた時は、私も自分用に買います。
2010年だから10年近く前の話ですが、こんなことも書かれていました。
2010年3月の時点では、グループ売上高は188億円であり、東京都に支店を持たない製造業としては日本一である。
うち80億円をマルセイバターサンドが占め、ストロベリーチョコと霜だたみがそれぞれ20億円、15億円で続いている。また、板チョコが15億円でこれに次ぐ。