パスタといえばトマトソース。しかし、トマトの原産地はアンデスでした。16世紀にナポリにトマトが入ってきてからトマトソースができるまで100年。パスタと一緒に食べられるようになるまでにその後数十年かかっています。結構時間がかかっていました。
トマトソースが好きです
トマトソースのパスタが好きです。シンプルなものが美味しいと思います。特にNHKのきょうの料理で公開されているこちら。
トマト水煮缶を手でつぶして塩を加えて半分の量になるまで煮つめる。私はいつも味が濃いホールトマトを使います。美味しいです。
これに、ニンニクとオリーブオイルを加えるだけで、多分、毎日食べられるパスタソースができます。
やっぱりパスタソースはトマトだよなと思っていたのですが、ふと、トマトは、南米のアンデスが原産だったと思い出しました。
一体いつからパスタにトマトソースを使うようになったんだろう?
トマトは大航海時代にヨーロッパに入ってきた
大航海時代、新しい野菜が持ち帰られるようになりました。
パスタでたどるイタリア史 (岩波ジュニア新書) を読みました。ジュニア新書ですが、大人が読んでも勉強になります。
スペイン・ポルトガルの台頭
トマトをヨーロッパに持って帰ったのはスペイン人だったそうです。ポルトガルとスペインは進出した地域が違います。
一六世紀前半、世界を分割し、新大陸を支配したのがスペインとポルトガルでした。
ポルトガルがインドのゴアやマラッカなどに基地を作って、いわばインド洋通商圏を牛耳り、香辛料貿易を独占しようとしたのに対して、スペインはカリブ海島嶼(とうしょ)と中南米の大半を得て、金や銀を採掘して本国にもたらし、さらに、アフリカから黒人奴隷を輸入して、サトウキビのプランテーション栽培を始めました。
食料としては、サトウキビのほか、以下で説明するジャガイモとトウモロコシ、そしてカカオもスペイン人が新大陸からヨーロッパに持ち込み、ヨーロッパの食文化を大きく変えていくことになるのです。
イタリアにトマトが入って来たのは1554年
1554年にイタリアでトマトを食用とするレシピができていました。しかも見ただけで味も美味しさも想像できるほど、なかなかなものです。
しかし、このレシピは普及しませんでした。
トマトはアンデス山脈西側斜面のペルーやエクアドルが原産地であり、中央アメリカに伝播しました。
それからスペイン経由でヨーロッパに入ったのが一六世紀前半で、もともと観賞用の珍奇(ちんき)な植物でした。
イタリアには一五五四年、ナポリに一隻のスペイン帆船が入港し、そこに他の物品とともにトマトの種子も含まれていたのだといわれています。
トマトは当初、ペラドンナ、ヒヨス、マンドラゴラなど、毒性で知られる植物との類似から危険視され、ほとんど受け入れられませんでしたが、一七世紀に栽培が始まり、その鮮やかな色ゆえ、菜園、庭、バルコニーに観賞用に植えられ、あるいは贈り物とされました。
なかには興味をもってその特性を観察するとともに、味わってみようという勇敢な者もいました。
先駆者はシエナの医者アンドレア・マッティオーリでした。彼は一五五四年、もうひとつの「ナス科植物」であるナスとともに、この「金のリンゴ」pomi doro を綿密に観察してから論じ、食用のためのアドバイスをしているのです。
オリーブ油、胡椒、塩とともに火を通し、さらに茹でて輪切りにしてオリーブ油かバターで揚げ、塩・胡椒で味つけすることを推奨するこの先見の明ある調理法は、以後の基本的レシピになるはずのものでした。
ところが、なぜか一六~一七世紀の料理人はこれを避け、なかなかレシピには取り上げられませんでした。
スペイン支配下のナポリ
この当時のイタリアは分断され植民地のような扱いでした。南部のナポリはスペインの支配下にありました。
複雑で絶え間ない勢力争いがつづいたナポリ王国は、シチリア島を支配下におく、スペインのアルゴン国王のアルフォンソ五世によって征服されました(一四四二年)。
そして彼は、ナポリ・シチリアをあわせた両シチリア王となったのです。やがて、本国のスペインがアラゴン王国からスペイン王国(ハプスブルグ家)へと移行し、ナポリはスペインの副王が支配する属国となりました。
スペインによる南イタリアの支配という体制は、スペイン継承戦争(一七〇一~一四年)によってスペインの王家がブルボン家に替わったあとも、一部の例外をのぞいて、イタリアの国家統一(一八六一年)まで継続したのです。
支配されてよいことはありませんが、スペイン支配下にあるおかげで、新大陸産の新食材がすぐに入って来るというメリットはありました。
もちろん、トマトが入ってきたのはそのおかげです。
スペイン風トマトソース
1554年にトマトの美味しそうなレシピがありましたが一般化しませんでした。その後、17世紀末ですから、100年以上経過して、トマトソースが登場します。
さて、トマトの話にもどりましょう。先ほど、大航海時代のもたらした食材の流入について述べる中で、トマトについて触れましたが、その食材を、イタリア風に作り替える、そしてパスタにピッタリのものに変身させる、というスゴ技を、ナポリ人はやり遂げたのです。
いうまでもなく「トマトソース」です。
それは一七世紀の末のことでした。マチェラータとローマを行き来しながら、高位聖職者と都市貴族に仕えた料理人、ナポリのアントニオ・ラティーニのレシピ「スペイン風トマトソース」によって、その後のトマトの大成功のための大きなステップが、ようやくにして踏みだされたのです。
完熟したトマトを炭火の上で焙り、丁寧に皮を取り、ナイフで細切れにする、そして刻んだ玉葱(たまねぎ)、胡椒、イブキジャコウソウあるいはピーマンなどと混ぜて風味をつけ、塩、油、酢で味を調える―これはイブキジャコウソウがなくなったといった多少の調整を経て、イタリア料理において大成功を収めるレシピですし、保存食品としても、輝かしい未来が約束されていました。
イブキジャコウソウは、ウイキペディアに記事がありましたが、タイムのことを指しているのだと思います。
パスタにトマトソースを使う
また、トマトソースとパスタが結び付くには、18世紀後半ですからさらに時間がかかっています。
ラティーニはトマトソースを茹で肉などにかけることを奨(すす)めましたが、その後しばらくして、ナポリはトマトソースの利用法をさまざま工夫する料理人を輩出しました。
そして一八世紀後半には、パスタとトマトがしっかりと結びつき、ナポリはイタリアにおけるパスタ業の中心地となったのです。
一九世紀初頭には、行商人がトマトソースを売って歩きました。
ブオンヴィチーノ公イッポリト・カヴァルカンティは、『理論的・実践的料理』(一八三九年)で「トマト(ソース)入りヴェルミチェッリ」のレシピをのせていますが、これが、トマトソースとパスタとの結びつきを示す文献上の最初の証拠です。
その後このソースの勢いはとどまることを知らず、イタリア人の味覚を魅了し、消費量はうなぎのぼりになりました。
さらに、この後のことは、ソースの歴史 (「食」の図書館) にこのように書かれています。
19世紀の終わり、1890年代の話です。
1891年にペッレグリーノ・アルトゥージがイタリア初の国民的料理書『料理の科学 La scienza in cuicina』を出版した頃には、トマトソースはもやはどこでも見られるようになっていた。
アルトゥージが「サルサ・ディ・ポモドーロ(トマトソース)」のレシピの最初に、やたらに人の話に口を出すでしゃばりの司祭が「ドン・ポモドーロ(トマトさん)」というあだ名をつけられたが、それは「トマトは何にでも入るから」だという逸話を紹介しているのが何よりの証拠である。
まだにその通り、アルトゥージのトマトソースは肉にもパスタにも使うことができた。
16世紀半ばにトマトがナポリに入って来て、それから100年後の17世紀末にトマトソースができ、さらに少なくとも数十年経った、18世紀後半にパスタとトマトソースがやっと結びつきます。
なんで、こんなに時間がかかるのでしょう?
ナポリ人がパスタを食べるようになったのは17世紀後半から
ナポリではパスタが一般的に食べられていたわけではなかったのです。ソースの歴史 (「食」の図書館) には、パスタは貧しい人の食べ物と書かれていたのですが、貧しい人の食べ物が一般化するとは考えにくい。
もともとの食生活があり、それが変化するには理由があるはずです。
ナポリは1442年から1861年までスペインに支配されていたと上で書きましたが、その影響か食生活に特徴がありました。
こちらはパスタでたどるイタリア史 (岩波ジュニア新書) からです。
人々は一五世紀後半から一七世紀まで、「野菜食い」mangiafogliaと呼ばれるほど、ブロッコリやキャベツなどの葉野菜を多食していました。(中略)
ナポリ人は一般に、葉野菜、ブロッコリ、フルーツを大量に抑制なく食べることに目がなかったといいます。(中略)
これらは季節を問わず食べられ、茹でて塩・胡椒とオリーブ油少々にレモンを絞っただけで、とても美味しいといい、一年中、毎日、貧乏人の食卓にも金持ちの食卓にも上ったということです。
と同時に、ナポリ人はキャベツだけ食べていたのではなく、肉類も相当量食べていました。
しかし長い時間かけて、ナポリ人は野菜に肉類を組み合わせた食生活から、パスタ中心の食生活へと移っていきました。
ナポリ人にパスタが広まったのは、マザニエッロの反乱(1647年)以後と書かれていました。
この反乱について調べました。スペインに対して果物税への不満が爆発した内容です。普段食べているものに課税されると、食事内容が変わるきっかけになります。
1647年にイタリアのナポリで生じた市民反乱。魚商人マザニエッロMasaniello(本名トマソ・アニエーロTommaso Aniello、1620―47)がその中心人物。
果物税を課して属領からの収奪を強化しようとしたスペインに対し、ナポリ市民の不満が爆発し、同年7月マザニエッロの指導下に下層民反乱が生じ、これが広範囲な市民反乱となった。
彼らは王宮に侵入し、役所や牢獄(ろうごく)を破壊した。マザニエッロは「ナポリ人民の総司令官」に選出されたが、わずか5日後に仲間の一団によって暗殺された。その後反乱は、市民だけでなく農民をも巻き込み、反スペイン暴動に発展したが、1年後にスペイン軍に鎮圧された。(出典)
ナポリの人口増加
また、パスタが普及したのは、ナポリの人口増加もあったそうです。
ナポリの人口は、一五世紀の七万五〇〇〇人から一七世紀半ばの四〇万人へと急増、その後、大きな疫病の流行があって激減しますが、一八世紀末にはふたたび四〇万人を回復しました。(中略)
人口が増え、多くの人が肉不足という状況において、パスタは肉の替わりにはならなくても、原料のセモリナには、グルテン、植物性蛋白質が豊富に含まれていますし、チーズをたくさんふりかけて、動物性プロテインと脂肪分を付加すれば、完全栄養にかなり近づけることができたからです。
なるほど、このようにして食生活が変化し、パスタが食べられるようになったのですか。
まとめ
実は、今回、初めはソースの歴史 (「食」の図書館) を読んでいたのです。
トマトがナポリに入ってトマトソースになるまでかなり時間がかかったことと、トマトソースがなかなかパスタに使われないことが不思議で、本を読んでも理由が分からなかったので、改めてパスタでたどるイタリア史 (岩波ジュニア新書)を探してきました。
ソースの歴史 (「食」の図書館) の著者はアメリカの大学でフランス文学を教えている先生なのですが、微に入り細に入り疑問を解決しながら本を書くのは、日本の先生の方が上手だなと思いました。