ジャガイモは、大航海時代スペインが持ち帰り、そこからヨーロッパに伝わりました。ドイツやオランダではよく食べられています。アメリカには17世紀後半には伝わっていましたが、農作物として栽培されるようになったのは、18世紀中頃のことです。
大航海時代じゃがいもはスペインからヨーロッパへ
ジャガイモのきた道―文明・飢饉・戦争 (岩波新書)に書かれていました。
ヨーロッパでジャガイモに関する最初の記録があらわれてくるのはスペインであった。その時期については諸説あるが、様々なヨーロッパ人の記録などから一五六五年から一五七二年のあいだだという。
一五七〇年前後にジャガイモはスペインにもたらされていたと考えられる。そして、スペインではセビリアの病院で一五七三年にジャガイモが食べ物として供されていたことにより、この年からジャガイモ栽培が始まったとされる。
しかし、その収量はきわめて低いものだったようだ。もともとジャガイモは中央アンデスのような緯度の低い短日(日長=日照時間が短くなること)条件下ではイモを形成するが、スペインのような高緯度地方の長日条件下ではイモの形成がむずかしい。
そのせいか、スペインでは一部地方でジャガイモの栽培が始まったものの、その普及は遅々として進まなかった。
大航海時代、ポルトガルとスペインが活躍していましたが、スペインはブラジル以外のアメリカを植民地としました。
ジャガイモがスペインに一番に到着したのは、理由があります。
ポルトガルとスペインで世界を分けた?
さらに、砂糖の世界史 (岩波ジュニア新書) にはこのように書かれています。
一四九三年になると、ポルトガルは、遅れて国土をイスラム教徒から取り戻したスペインとはかり、ローマ教皇を仲介者として、勝手に世界を二分することを決定しました。
現地の住民とは何の関係もなく、ヨーロッパのキリスト教徒が世界の分割を決めたのですから、こんな身勝手なことはありません。
ともあれ、このときヨーロッパ人のあいだでは、ほぼこんにちの西半球、つまり南北アメリカ――まだ、その地理はほとんどわかっていませんでしたが――などはスペインのもの、アフリカやアジアの大半は、ポルトガル領ということにされました。(中略)
ただ、翌年の一四九四年には、早くもポルトガルがこの協定に異議を唱え、改めてトルデシリャス条約がスペインとのあいだに結ばれ、西半球の境界が少しずらされました。
その結果、中南米でもブラジルだけはポルトガル領ということになりました。
ブラジル以外の南米は、スペインの植民値だったからです。
スペインからじゃがいもはヨーロッパに広がりました。必ずしも最初から受け入れられたわけではないようですが、戦争や飢饉があり、ジャガイモの生産性の高さによって広く食べられるようになり、また、人口の増加にもつながったとあります。
その中で、ドイツについて書いておきます。
ドイツのジャガイモ
ドイツはジャガイモをたくさん食べる印象があります。ビアホールに行くとジャガイモ料理が確かにいろいろあります・・・。
ドイツにジャガイモが伝えられたのは16世紀の末のこと。
最初はそれほど食べられなかったのですが、飢饉と戦争によってジャガイモ栽培が急速に広がり頼りになる食料として食べられるようになりました。
ジャガイモのきた道―文明・飢饉・戦争 (岩波新書)からです。
単位面積あたりの人口扶養力の大きいジャガイモは、一九世紀前半のドイツにおける人口の急増をささえ、一般民衆の食生活にも定着していったのである。
その状態を具体的に一般庶民の食事でみてみよう。じつのところ、一般庶民の食事の内容を知ることは容易ではないが、病院や救貧院などの施設では給食が支給されていたため、ある程度の内容を知ることができるのだ。
たとえば、一七八五年のドイツ北西部に位置するブレーメンの貧民施設での一週間の食事をみると、昼食はほとんど毎日がバター付き黒パンであり、夕食は粗びきソバのカユおよびバター付き黒パンで、ジャガイモは日曜日の昼食に一回でてくるだけであった。なお、この記録では朝食についての記載がない。
この状態が、一九世紀の半ばになると一変する。
表3-1は、ブレーメンとベルリンのほぼ中央部に位置するブラウンシュヴァイクの貧民施設での一八四二年の食事の内容を示したものであるが(これも朝食の記録はない)、ここではジャガイモが毎日登場している。
しかもジャガイモは一回一人あたり一〇〇〇グラムと多く、それを昼も夜も食べている日さえある。
つまり、一八世紀末から一九世紀半ばまでに食事の中心は穀物のカユからジャガイモに大きく転換したことがわかるのである。
この表を見てください。
昼食 | 夕食 | |
日曜日 | ジャガイモ 1000g 白インゲン豆 130g | 黒パン 346g バター 15g 脱脂ミルク 0.3L |
月曜日 | ジャガイモ 1000g ひきわり大麦 130g | 黒パン 346g バター 15g 脱脂ミルク 0.3L |
火曜日 | ジャガイモ 1000g ニンジン 150g | 黒パン 346g バター 15g 脱脂ミルク 0.3L |
水曜日 | ジャガイモ 1000g レンズ豆 130g | 黒パン 346g バター 15g 脱脂ミルク 0.3L |
木曜日 | ジャガイモ 1000g エンドウ豆 130g | よく煮たジャガイモ 1000g バター 15g 脱脂ミルク 0.3L |
金曜日 | ジャガイモ 1000g スウェーデンカブ 150g | よく煮たジャガイモ 1000g オートミール 20g バター 15g 脱脂ミルク 0.3L |
土曜日 | ジャガイモ 1000g 白インゲン豆 130g | 黒パン 346g バター 15g 脱脂ミルク 0.3L |
時代とともに、ジャガイモを食べる量はどんどん増えます。
さらに一八五〇年ころのドイツにおける年間一人あたりのジャガイモ消費量は約一二〇キログラムであったが、それが一八七〇年後半になると二〇〇キログラム近くになる。
さらに一八九〇年代から九〇年前後には、二五〇キログラムから三〇〇キログラムにまで達した。
こうして、ジャガイモは二〇世紀に入るとドイツ人にとって「国民食」といえるほどに重要な役割を果たすようになるのである。
オランダではもっと食べる
ドイツは一人当たり毎月6キロは食べていて、オランダでは7キロ以上食べるようです。すごく多いなと思いましたが、1日200g~230gあたりですから、日本人がご飯を食べるのとあまり変わらないかもしれません。
ちなみに、オランダでは現在もジャガイモがきわめて重要な食料となっており、ひとりあたりの年間の消費量は九〇キログラムを超え、ドイツの七三キログラムをしのいでいる。
それを物語るように、アムステルダムのスーパーマーケットなどに行くと、ジャガイモだけで大きな棚の一角を占め、そこでは十数種類ものジャガイモが売られている光景を見ることができる。
じゃがいもを油で揚げる
ジャガイモの食べ方で人気があるのは(体によいかどうかは別として)揚げ物です。
ジャガイモの歴史 (「食」の図書館)を読むと、油で揚げたジャガイモについて書かれていました。この本は、なかなかマニアックな内容が書かれていますが面白いですよ。アマゾンへのリンクは画像に貼ってあります。
フレンチフライ
揚げものの技術は18世紀後半にフランスで完成された。ジャガイモの揚げものにはさまざまな形と名称があった。
18世紀末、細長い棒状にカットしたジャガイモの揚げものは、フランス語でポム・ド・テール・フリット[直訳すると揚げた大地のリンゴという意味]と呼ばれており、それが縮んでポム・フリットになった。
1801年、第3代アメリカ大統領に就任したトーマス・ジェファーソンは、ホワイトハウスにフランス人シェフを招いた。
「生のジャガイモを細長い棒状にカットして油で揚げる」というフランス語のメモが残されているが、これはおそらくポム・フリットのレシピだろう。
ポム・フリットは、普及するにつれてさらに簡単にフリットと呼ばれるようになり、19世紀から20世紀にかけてフランスとベルギーのおしゃれなディナーやレストランの定番メニューになった。
今日ではフランスとベルギーにかぎらずヨーロッパ中の国で食べられている。アメリカではフレンチフライと呼ばれる日常的な食べ物だ。
冒頭、揚げものの技術と書かれていますが、揚げもの自体は珍しいものではないので、じゃがいもを揚げることについていっているのだと思います。
改めて考えてみると、なぜ棒状にカットしたのかなと思います。
フィッシュ・アンド・チップス
有名なフィッシュ・アンド・チップス
イギリスで「チップ」は「フィッシュ・アンド・チップス」という料理名に根付いている。
これは、東ヨーロッパから来たユダヤ系移民ジョゼフ・マリンが広めた料理で、マリンは1860年代にロンドンで店を開き、白身魚とジャガイモのフライを組み合わせた料理を売り出した。
フライドポテト
アメリカにじゃがいもが入ってきたのは、17世紀後半のようです。
ジャガイモは17世紀後半には北米大陸に伝わっていたが、農作物として栽培されるようになったのは、18世紀中頃にスコットランド系アイルランド人がアイルランドからニューイングランド地方にジャガイモを伝えてからで、そこから全米各地に広まった。
アメリカでのフライドポテトとハンバーガーの組み合わせは20世紀初頭からのようです。
20世紀初頭のアメリカでは、フライドポテトは、喫茶店、食堂、ドライブインなどで時折お目にかかる食べものだった。(中略)
調理人は、注文を受けるごとにジャガイモの皮をむいてカットしなくてはならないが、ジャガイモは皮をむいてからすぐに調理しなければ黒ずんでしまうし、油(当時はラードが主流だった)の温度を170度から180度に一定に保たねばならず、鍋に入れるジャガイモの量が多すぎると油の温度が下がってぐにゃぐにゃと油っぽいポテトになってしまう。
おまけに、出来立てをあつあつで出さないと、すぐに水っぽく、くたっとしてしまう。調理人は、こうした厳しい条件をクリアできるように訓練を受けねばならなかったが、それには時間がかかった。
さらに煮えたぎる油が入った大鍋の近くで作業をすれば大惨事につながるおそれもある。正直なところ、フライドポテトは割に合わないというのが多くのレストラン経営者の意見だった。
しかし第二次世界大戦がはじまると、アメリカでは肉が配給制になって品薄となった。喫茶店、食堂、軽食堂、ドライブインではパティのサイズを小さくするか、ハンバーガーに代わる料理を提供しなくてはならなくなった。
一方、一度も配給制にならず、安価で、たっぷり在庫があったのが、じゃがいもだった。こうしてフライドポテトは、全米の多くのレストランの定番メニューに昇格することになった。
戦後配給制が終わる頃には、アメリカ人はフライドポテトが好きになっており、フライドポテトの売り上げも増加した。
文中、ハンバーガーが出てくるので、ハンバーガーはいつからあるのか調べてみました。ウイキペディアにはこのように書かれていました。
1904年にはあったようです。
1904年に米国セントルイスで開催されたセントルイス万国博覧会の会場内で、ハンバーガーステーキを挟んだサンドイッチが「ハンバーガー」という表記のもとで販売されていたという事実からも、20世紀の初頭には専用の丸いバンと組み合わさり、今日のハンバーガーの原型がアメリカで誕生していたと考えられる。(出典)
ポテトチップスの誕生
ポテトチップスの歴史は案外古く、1870年代からあったようです。もちろん、アメリカ生まれです。
広く流布している説によれば、ニューヨーク州の保養地サラトガのムーン・レイク・ハウスホテルでコックをしていたジョージ・クラム[1828~1914]が、超薄切りポテトを油で揚げた最初の人物といわれている。
これはサラトガ・チップスと呼ばれ、肉料理やジビエ料理の付け合わせとされるようになった。
ただし実際には、生のジャガイモを油で揚げる「シェービング[削りくずという意味]」のレシピは、1824年頃からアメリカの料理書に登場しているのであり、極薄の「サラトガ・チップス」も、クラムが雇われる前からムーン・レイク・ハウスホテルでアイスクリームの付け合わせにされたり、お菓子のように紙袋に入れて売られたりしていた。
発明者が誰かはともかく、「サラトガ・チップス」やポテトチップスのレシピは1870年代初頭からたびたびアメリカの料理書に登場するようになった。
1890年代に入ると、ボストンのジョン・E・マーシャルや、オハイオ州クリーブランドのウィリアム・タッペンドンなど多くの製造業者がポテトチップスの大量生産を開始した。
当時のポテトチップスは樽に入れて食料雑貨商へ卸された。店主はポテトチップスを紙袋に入れて販売し、客はこれをオーブンで温めて食べた。
残念なことに、こうした商品はたいがいしけっていたので、まったく人気がなかった。
1930年代、ポテトチップスが真空パックの袋で販売されるようになって包装問題は解決されたが、その頃には、ポテトチップスは料理の付け合わせというよりスナック食品になっていた。
昔のポテトチップスはしけって人気がなかったという部分を読んで、ふと昔を思い出し、日本のポテトチップスについた調べてみました。日本のポテトチップスは真空パックではなかったですね。
カルビーのサイトに歴史が書かれていました。
日本でポテトチップスの発売は1975年
カルビーがポテトチップスを発売したのは1975年だそうです。このあたりのことは私の子供時代のことなので覚えています。
子供たちの人気は、かっぱえびせんからサッポロポテトに移り、そしてポテトチップスが発売されました。私もよく食べました。
袋についてあまりよく覚えていないのですが、袋を開けてしけっていたことなどなかったですね。
NOTE
じゃがいもはブラジル以外のアメリカ大陸を植民地化したスペインがヨーロッパに持ち帰りました。
最初はあまり受け入れられなかったのですが、戦争や飢饉の食料不足のため、徐々に食べられるようになりました。じゃがいもの生産性の高さと、何しろ美味しいですから、その後はたくさん食べられるようになりました。
油で揚げたじゃがいもは18世紀後半にフランスで生まれたようですが、現在に至るまでスナック菓子としても広く食べられています。
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